2008.03.16 Sun
DVD:映画【BLOOD DIAMOND】
![]() | ブラッド・ダイヤモンド (期間限定版) (2007/09/07) レオナルド・ディカプリオ. ジャイモン・フンスー. ジェニファー・コネリー. カギソ・クイパーズ. アーノル 商品詳細を見る |
こういう映画で感想というのは非常に書きにくい。
非常に話題となった作品でもあるし、ある意味「観ておくべきもの」という気もする。
そして、こういう現実のシリアスな問題を抱え込んで、映画を興行的にも成功させてしまったところにも、とても価値があるように思う。
レオナルド・ディカプリオにとっても、代表作にあげていいんじゃないでしょうか。
こういう役柄をやっていくと、彼は意外といいかもしれません。
ストーリーはシンプルです。
Blood Diamond、つまりいわゆる”紛争ダイヤ”をめぐる、サスペンスとアクション(いえ、内戦の風景をアクションというのは憚られるのですが・・・)。親子や男と女、理想と現実、正義・・・そういったものが、比較的わかりやすく散りばめられています。
いかにもハリウッドな恋愛描写に陥りそうなシーンが途中にありましたが、見事、踏みとどまったことに敬意を評したいと思います。
予備知識のない方にも、ある方にも、映画にある程度は娯楽を求める方にも、または映画に社会正義を求める方にも、観ることのできる作品です。
*ReadMoreにもう少し重い話を。(アフリカ問題に関心のない方は、読まないほうが良いです。)
個人的には、アフリカのテーマは結構辛い。
以前、しばらく東アフリカで暮らしていたことがあるので、アフリカの問題は妙に真に迫ってきてしまう。東ではダイヤは採れないのけれども、紛争地域は間近にあったし、難民キャンプも知っている。赤茶けた砂も、砂埃舞う町も、私には妙になじんだものだから、なんだか映画の中の世界に思えない。
私がよくなじんだ世界だからこそ、拭えない違和感もある。
この作品の中でもちゃんと語られてはいるけれども、「アフリカから搾取されるもの」の発端は、いつもアフリカの外にあったし、私たちはそれに加担し続けている。この意味を実感を伴って理解することは難しいと思うし、これが我々の作り上げてきた世界の仕組みそのものだと受け入れるのは、更に難しいことであると思う。だから、こういう映画が予備知識が比較的に少ない(あるいは、ない)方によってどのように受け取られるのか、私には想像することが難しい。
ここ数年、”BLOOD DIAMOND”以外にもアフリカの問題を扱った映画は流行のように作られている(『ダーウィンの悪夢』や『ホテルルワンダ』など)。もしかしたら、これは白人社会の欺瞞なのかも、といじわるに思ってみたりする。もしくは、勘違いの正義の発露なのだろうか? 啓蒙のつもりだとしたら、さらに愚かだと思える。それでも何もしないよりはましだと思う、ということなのだろうか?
紛争ダイヤについて言えば、問題の本質は、ダイヤがもたらす利益がどこに帰属するのか、ということにある。ダイヤは鉱物資源である。国土が生む資源なのだから、ダイヤが生む利益は本来は産出国を潤すものでなければならない。もしくは、ダイヤが生みだす利益でもって、国家を成り立たせしめる方策を模索できるはずなのだ。ならばなぜ、シエラレオネでは国民同士が争い、その根底に「血塗られたダイヤ」が存在するのか?これは、実は内紛を抱えた国家の内なる問題なのではなく、ダイヤの利権を牛耳っている一部の会社と、資本主義の仕組みを利用した、「アフリカの外の世界の事情」があるからなのだ。
本来、所有者が持つべき「権利」を国家に返そうという議論をすることなく、キンバリー・プロセスのような議論をしていること自体、資本主義社会の勝者の論理でしかない。もちろん、植民地支配が生み出した莫大な遺産を、自ら手放そうとするような議論が起こるはずもなく、むしろ守り通そうとする理屈と論理が優先される社会なのだ。そして、そのような社会の中で、アフリカはいつも弱者だったし、アフリカの国家でなければ主張できるはずの最低限の権利さえ、保障されていない。
ダイヤでも、金でも、象牙でも、養殖の白身のお魚でも、アフリカの大地を荒ませるものと、私たちとの関わりが「個人の消費行動」という一面のみで捉えられるのだとしたら、とても悲しいことだと思う。「”買わない”ことで無関係だと思える」という免罪符を与えているだけなのだから。だから、私は「BLOOD DIAMOND」を映画作品としては評価できるけれども、ドキュメンタリー要素について言えば、はっきり言って欺瞞に過ぎないと思っている。
映画に多くは求められないし、観客もそんなことは望んでいないのだけれども。
以前、しばらく東アフリカで暮らしていたことがあるので、アフリカの問題は妙に真に迫ってきてしまう。東ではダイヤは採れないのけれども、紛争地域は間近にあったし、難民キャンプも知っている。赤茶けた砂も、砂埃舞う町も、私には妙になじんだものだから、なんだか映画の中の世界に思えない。
私がよくなじんだ世界だからこそ、拭えない違和感もある。
この作品の中でもちゃんと語られてはいるけれども、「アフリカから搾取されるもの」の発端は、いつもアフリカの外にあったし、私たちはそれに加担し続けている。この意味を実感を伴って理解することは難しいと思うし、これが我々の作り上げてきた世界の仕組みそのものだと受け入れるのは、更に難しいことであると思う。だから、こういう映画が予備知識が比較的に少ない(あるいは、ない)方によってどのように受け取られるのか、私には想像することが難しい。
ここ数年、”BLOOD DIAMOND”以外にもアフリカの問題を扱った映画は流行のように作られている(『ダーウィンの悪夢』や『ホテルルワンダ』など)。もしかしたら、これは白人社会の欺瞞なのかも、といじわるに思ってみたりする。もしくは、勘違いの正義の発露なのだろうか? 啓蒙のつもりだとしたら、さらに愚かだと思える。それでも何もしないよりはましだと思う、ということなのだろうか?
紛争ダイヤについて言えば、問題の本質は、ダイヤがもたらす利益がどこに帰属するのか、ということにある。ダイヤは鉱物資源である。国土が生む資源なのだから、ダイヤが生む利益は本来は産出国を潤すものでなければならない。もしくは、ダイヤが生みだす利益でもって、国家を成り立たせしめる方策を模索できるはずなのだ。ならばなぜ、シエラレオネでは国民同士が争い、その根底に「血塗られたダイヤ」が存在するのか?これは、実は内紛を抱えた国家の内なる問題なのではなく、ダイヤの利権を牛耳っている一部の会社と、資本主義の仕組みを利用した、「アフリカの外の世界の事情」があるからなのだ。
本来、所有者が持つべき「権利」を国家に返そうという議論をすることなく、キンバリー・プロセスのような議論をしていること自体、資本主義社会の勝者の論理でしかない。もちろん、植民地支配が生み出した莫大な遺産を、自ら手放そうとするような議論が起こるはずもなく、むしろ守り通そうとする理屈と論理が優先される社会なのだ。そして、そのような社会の中で、アフリカはいつも弱者だったし、アフリカの国家でなければ主張できるはずの最低限の権利さえ、保障されていない。
ダイヤでも、金でも、象牙でも、養殖の白身のお魚でも、アフリカの大地を荒ませるものと、私たちとの関わりが「個人の消費行動」という一面のみで捉えられるのだとしたら、とても悲しいことだと思う。「”買わない”ことで無関係だと思える」という免罪符を与えているだけなのだから。だから、私は「BLOOD DIAMOND」を映画作品としては評価できるけれども、ドキュメンタリー要素について言えば、はっきり言って欺瞞に過ぎないと思っている。
映画に多くは求められないし、観客もそんなことは望んでいないのだけれども。
| 時々、まったりと映画鑑賞(DVD) | 16:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑









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